vol.33 小嶋 一浩 さん 大阪万博とセキスイハイム
横浜国立大学大学院Y-GSA教授 CAt(シーラカンスアンドアソシエイツトウキョウ)パートナー

実家の裏は山の斜面。そんな山村部の盆地で育った。(写真:筆者提供)実家の裏は山の斜面。そんな山村部の盆地で育った。(写真:筆者提供)

大阪万博会場(写真:大阪府提供)

大阪万博会場(写真:大阪府提供)

セキスイハイムのユニット住宅(画像:筆者提供)

セキスイハイムのユニット住宅(画像:筆者提供)

大阪と京都・奈良の府県境の中山間地の自然の中で、私は育った。小学校に入学した年には、川をダムのように堰き止めたところをプールにして泳いでいた。山の中でカブトムシやクワガタを捕っては買い付けにやってくるおじさんに売って小遣いを稼いでいた。お正月前には祖父といっしょにウラジロを採りにやはり山へ分け入って、いろいろな植物のありかを教わった。田植えから稲刈り脱穀まで、手でやった。大阪出身というイメージからはほど遠い環境だった。

そんな私が小学校から中学校へと進学した年に、大阪万博とセキスイハイムがほぼ同時にやってきた。両方とも、近未来的という言葉がピッタリくるものの登場である。

万博会場は同じ大阪府下といっても、住んでいた場所からはけっこう遠かった。それでも何度も通った。同級生と公共交通機関を乗り継いで遠出をしたのも初めてのことだった。いろいろなパビリオンがあって、それを授業中にノートにいたずら書きでスケッチしていた。形に特徴があるフジグループ館やオーストラリア館、ソ連館をよく描いていたような記憶がある。丹下健三の大屋根はもちろんよく覚えているが、スケッチしたことはたぶんない。

実家は、入母屋造り2階建ての母屋のほかに納屋や蔵があって、祖父がかって営んでいたという製粉工場の大きな水車(これが機械を動かす動力)付の建物まであるような農家だった。2人目の妹が生まれたこともあってか、元製粉工場を取り壊した跡に新しい家を建てることになった。両親が選んだのは、関西地区では発売されたばかりのセキスイハイム(当時はM1とは言っていなかった)だった。トラックでユニットを運んできて1日で組み上げるという住宅である。実際に、学校に行って帰宅したら、もうあらまし完成しているように見えた。集落の人たちも大勢見学に集まってきた。洋式水洗便所もユニットバスも深夜電力利用の給湯器もすべて初登場だったから、生活は文字通り一変したのである。

DOCOMOMO100選に100番目として登録された型式の住宅は、大きなフラットルーフを追加はしたが今も健在である。折板の屋根に水勾配も取らないで大量生産したのだから、おおらかな時代だったのだなあと思う。建築学科に進学したのはこの6年後のことである。ところが、現在建築家として関わっているプロジェクトの半分くらいでは、冒頭に書いたような1970年以前の体験がリソースになっているから不思議なものである。