vol.27 ロジャー・パルバース さん(羅須地人協会)作家・劇作家・演出家

vol.27 ロジャー・パルバース さん(羅須地人協会)作家・劇作家・演出家作家・劇作家・演出家

羅須地人協会建物外観。(写真提供 花巻市観光課)

話は私が初めて花巻を訪れた1969年に遡る。私の訪問の終点は宮沢賢治の生家だった。私は花巻駅に到着し(当時は東北新幹線がまだまだ走っていなかったのだけれど)、その家がどこにあるかを尋ねた。

私は軒下に立ち、玄関扉をがらりと開けて言った、「ごめんください!」
すると60代中頃の男性が玄関に現れた。それは今の私よりもその当時若かった、賢治の弟・清六だった。

清六さんは、私が賢治の作品の大の賛美者であり、それらを翻訳したいという話を聞くと、とても親切に招き入れてくれた。彼は街の周辺を案内してくれ、北上川あたりをドライブに連れて行ってくれた。そして、わたしたちは木立のところへ車を停めた。羅須地人協会のことを本で知っていたが、その木立の近くにあった建物をどうしてもこの目で見たいと思った。賢治は、「森」を意味するポーランド語の"las"という単語をその塾の名に取り入れた。清六さんは家の中まで案内してくれたが、裏に出たら、賢治の筆跡を模した文字が黒板に書いてあった。

下ノ畑二居リマス 賢治

賢治は花巻農業高校での教職を1926年3月に退いた。翌月には自宅から1.5キロ離れたこの建物で、彼は私塾を始めたのだ。彼は、人に説くことは自分でも実行できると考えて、農夫になることが出来るのだと自分自身と他人に証明したかった。
1926年5月2日、「春」という詩で彼はこう書いた。

ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、おれはこれからもつことになる

しかし、残念ながら、彼はほんの七ヶ月だけしか塾を続けられなかった。この建物それ自体は、彼の祖父が引きこもることが出来る場所として1904年に建築された。一階に二部屋、二階には一つ和室がある。宮沢家のようにとても裕福な家庭にとっては控えめな家である。しかし、一旦中に入れば、光で満たされた大きな窓が目に入る。川の近くに見上げるように建てられ、そこは老人が最後の日々を送るには申し分のない場所だっただろう。

けれども今は、賢治が最愛した人が最後の日々を送った場所として知られている。1922年、彼の愛した妹、トシが24歳の誕生日の三週間後、この元隠居所で亡くなった。賢治は押し入れに頭を突っ込んで彼女の名を何度も呼んだ。

清六さんがそこに連れて行ってくれた数ヶ月後、羅須地人協会の建物は解体された。その建物は現在、花巻農業高校の敷地の中にある。

私はここ45年にわたって何回かその建物を訪れたことがある。そして、それが保存されていることを嬉しく思う。それは遠い昔の人々の声を部屋に運んでくれる。

裏の黒板はまだそこにある。しかし、賢治が農夫になろうとした下の畑は、別の場所にあるだけではなく、別の時代のシンボルでもあるのだ。