第40回:小林澄夫さん

「この人に聞きたい」」第40回目は、長年、左官専門誌の編集長を務められ、日本全国の土壁のある風景を訪ね歩いてきた小林澄夫氏です。今日では、調湿性、蓄熱性などの機能面、人に優しい素材感など、自然素材としての土壁の良さが見直されつつあります。しかし、小林氏がいう「土壁」とは、左官職がその土地の土、藁スサ、糊、骨材、水などを調合してつくる壁であり、工場で袋詰めされた「建材」としての土壁は、むしろ左官職の本来の仕事の半分を奪うことを意味していました。そして、小林氏は「土壁」のことを「泥」と呼び、建材として見直されつつあることを「近代の欠落部分の補完として泥をみるとしたら、それは間違ったことである。泥は泥であり、天地自然と同じく無償のものだ」と語り、「建材」ではない「泥」としての土壁の本質を説きます。日本の住まいの原風景としての「土壁」についてお話を伺うことにしました。(文/2013年9月現在)

泥壁は、住まいの中に今なお残る、泥の地べたの記憶。

自然素材は「無償の存在」

写真:小林澄夫さん

―小林さんの著書の中で特に印象に残っているのが「素材の無償性」という言葉です。まずはこのお話から伺いたいのですが。

当たり前のことですが、木や土や石など自然のものは建材になるために生まれてきたわけではありません。しかし、工場などで建材として生まれた材料は、建材としての意味を超えることはないわけです。例えばアルミサッシの窓枠とか、窓ガラスは、それでしか存在の意味を持ちません。それに対して木や土や石は、人間がつくったものではないですから、人間以前もあれば人間以後もある、自然の材料のほとんどは地場で見出される無償のものであり、無償であることは、本来何もののためにあるのではなく、そのもの自身としてあるということです。

そういう意味で、かつての民家を成り立たせてきた自然の素材は、柱になったり、壁になったり、屋根になって建材の一部になっているにしても、建材以上のもの、つまり人間を超えた存在です。いつでも本来の無償の存在に帰ろうとしているのであり、ゆるやかに時を刻みながら、木は腐蝕し、泥壁は水和し風化し粘土化していきます。多分、建築に美しさや愛おしさを感じるとしたら、それはその建築の中に含まれている無償性によってだと思います。その建築にどれだけ無償の存在が含まれているかによって、その分だけ愛おしさや美しさを感じるのではないでしょうか。無償性とは、言い換えれば「自然との連続性」ということであり、建築の無償性もまたしかりです。

―「無償」という言葉には「見返りを求めない」という意味があると思います。人間が建材としての意味を与えることは、建材に見返りを求めていることに他なりません。

「見返り」を「機能性」だと考えると、土なんて弱いものです。雨が降って水が掛かれば零れ落ちてきます。機能性だけを考えれば土なんかよりコンクリートや鉄板、新建材のほうがいいわけです。自然のものはバラつきがあるし、工業化には向きません。とはいえ、自然のものの性質を変えることで機能性を獲得してきたことも事実です。例えば鉄なんて古い材料ですが、自然の中に鉄は存在し、精錬された鉄もいずれは錆が出て、自然に帰ろうとします。

―自然のものの性質が大きく変われば変わるほど、つまり、無償の存在が見えなくなればなるほど、そういう材料からは人との親和性は感じられなくなります。そして、その反動から土壁への回帰が始まっているように感じますが、その時にも機能性という評価、つまり、新建材の尺度を前提とした役割でしか意味を持たせられないことに虚しさを感じます。

早く、安く、確実な「土壁商品」

奈良の桜井駅近くで車窓から初めて見た泥小屋。この不思議な泥小屋の魅力に惹かれて全国を旅することになる。

奈良の桜井駅近くで車窓から初めて見た泥小屋。この不思議な泥小屋の魅力に惹かれて全国を旅することになる。

丸太の柱と梁、土壁という限りなくシンプルな構造が、泥壁の無償性を語っている。

丸太の柱と梁、土壁という限りなくシンプルな構造が、泥壁の無償性を語っている。

山辺の道のほとりに佇む民家の愛おしくも儚い泥壁の美。軒は深く、その影はか弱い泥壁を守っている。

山辺の道のほとりに佇む民家の愛おしくも儚い泥壁の美。軒は深く、その影はか弱い泥壁を守っている。

ほんの一部を除いて、現代の建築の現場から小舞泥壁がなくなり、左官の仕事がなくなりました。土壁への回帰といってもそのほとんどは珪藻土や漆喰など、工場で合成樹脂を調合され、袋詰めされた材料を石膏ボードなどの下地に1〜2ミリくらい塗るだけで、左官というよりも塗装といったほうが近い。左官技術の立場からいうと土壁とは言えないものです。土壁に限らず、現代の建築全体のあり方が、工場でつくった材料を現場で組み立てるだけというスタイルになっていますから、壁だけが昔のままのスタイルであるわけにはいかないのです。この流れは時代の流れというか、価値観が変わらない限り、止めることはできないと思います。

それから、土壁の機能性という面ですが、調湿性や蓄熱性、テクスチャ(質感)といった機能は、本物の花とそっくりの造花がつくれるように、今や新建材でいくらでも代替、再現できるわけです。大工にしろ、左官にしろ、職人と呼ばれる仕事は、お金持ちの家や文化財の修復など、残念ながら一部の工芸的な仕事を除いて廃れてしまう運命にあります。

―小林さんが土壁に愛おしさや美しさを感じるように、多くの人の中にもその感受性があるのではないかと思います。そもそも小林さんが土壁、というか泥壁に興味を持ったきっかけは何だったのでしょう。

僕は建築や職人の世界は全く知りませんでした。大学は文学部でしたから、就職先は出版社や雑誌社ということになり、採用されたのが黒潮社という出版社でした。建築専門の職人向けの雑誌をつくっている会社で、そこで配属されたのが『左官教室』という左官専門誌でした。当時は東京オリンピックが終わって、経済成長が続いていた頃でしたから左官の仕事もたくさんありました。その一方で、新建材が次々に生み出された頃でもありましたから、新しい左官材料を売り込むための雑誌でもあったわけです。いわゆる業界誌ですね。オリンピック以前は「左官材料」と呼ばれる商品はありませんでした。建材店で扱っていたものは土や石灰や藁スサ、糊や骨材、顔料や砂であって、これらの素材を左官が買ってきて調合して壁にしていたわけです。

ところが、オリンピック以降はあらかじめ調合された「左官材料」が登場するようになります。はじめは繊維壁のメーカーでした。左官も忙しかったので自分で調合していては仕事が追いつきませんから重宝して使いました。メーカーは職人さんの仕事は「塗るだけ」という商品を次々につくるようになりました。建材メーカーも次々に生まれ、雑誌も広告だけでなく、簡単に、安価に、手早く、確実にできるなど商品のメリットをどんどん紹介していきます。編集の仕事をはじめた頃は素人ですから、本物の土壁のことなんか知らないわけです。聚楽(じゅらく)の京壁や大津磨き、漆喰の彫刻も知りませんでした。とにかく左官業界の近代化とか、新しい材料の商品知識、ひび割れ防止の知識だとか、そういうことばかり取り上げていましたから、伝統的な土壁など入る隙間はありませんでした。

「泥壁の風景」との出会い

でも、しばらくすると商品紹介の記事ばかり書いていることがつまらなくなり、東京の殺伐とした風景にもうんざりしていたこともあって、あるときふと奈良へ旅に出たことがありました。途中に桜井という駅があって、駅を通過する車窓から見える景色の中に、奇妙な泥の構造物がいくつも目に入りました。帰りに駅を降り、歩いてみたのが泥壁の風景との出会いでした。古いお寺があるところにはまだこういう風景が残っているんだと思って、法隆寺へ行き、当麻寺を訪れ、あちこち泥壁を巡る旅に出るようになりました。業界誌としては土を扱ってもお金にならないわけですから、仕事とは関係なく、自分の興味のまま歩き回りました。

―その後、仕事との関わりはどうなったんでしょう。

小さな出版社だし、一人で任されるようになったので、自分で企画を立てて、それまでの業界誌としての路線から少しずつ変えていくことにしました。そのうち、久住さんなどいい仕事をする職人さんとの繋がりもでき、建築家にも土壁に興味を持っている人がいましたから、左官と建築家を繋げたりして、様々な展開に繋がっていきました。商品紹介しないわけですから業界誌としては困ったものですが、左官の専門誌なんて一つしかありませんから、メーカーも広告は出し続けてくれました。しかし、時代の流れは止められず、左官業界全体が不景気になっていきましたから、購読者も増えない、次第にメーカーも広告費を削減していき、自然消滅という感じで結局は廃刊ということになりました。

―工務店が家をつくるようになって、左官さんはその下請けという位置付けになりました。

昔は家を建てられるのは一部の限られた人で、施主が大工や左官や材料を手配して手間賃を払って建てました。職人は直に施主と繋がっていたわけです。それが今は工務店が間に入って采配していますよね。職人は決まった手間賃、決まった納期の中で仕事をするだけですから、いい仕事をしようとは思わないわけです。昔は自由度があって、施主にもっと良くなる仕事を直接提案したりなど、主体的に仕事に取り組める関係がありました。創造性や芸術性の高い仕事に挑戦するなど、技術の研鑽も同時に行われたわけです。

泥は、微細な風や水の棲むところ

―家づくりのしくみがガラリと変わってしまったということですね。とはいえ、若い世代の中には自分で土壁を塗ったり、自分で田んぼを耕したり、子どもたちが泥団子をつくって遊んだりなど、泥に親しみを感じる感覚が残っているように思います。変わったのは家のつくり方だけで、小林さんがいう「無償性への感受性」は次の世代にも残っているのではないでしょうか。

左官が塗った土壁と新建材の壁の空間のどちらが好きかという学生を対象にした実験では、ほとんどの学生が土壁の空間がいいと感じたようです。僕が育ったのは土間があり、ヘッツイ(かまど)があり、エネルギーは薪という環境でしたから、泥や自然を体感的に感じてきたわけです。でも、スイッチ一つで何でもできるという環境で育った子どもたちがどうやって自然と対峙していけるのか、テレビやパソコンで育った子どもたちが「自然はいいものだ」ということを知識として知っていたとしても、感受性とは別のものです。民家風、土壁風が流行っていますが、実態は塗装であり、○○風を経て、本物の土壁を知るきっかけになればいいですが、多くの場合「ひび割れや傷はクレームの対象」というのが現実です。施主の感覚が変わらないと、本物は失われてしまいます。もちろん、左官を含め、家を提供する側が自然素材を使うことの意味や本質をきちんと伝え、「自然はいいものだ」ということを体感的に感じてもらう努力をしなくてはいけません。

―まさに「無償性への感受性」を呼び覚ます、育むということですね。工務店は地域に根差してしか存在できません。木や土といった地域の資源を活かさず、新建材を多様してしまうことは自らの存在価値を失わせていることに他ならないと思います。

アイヌ語で家のことを「チセ」と呼びますが、「チセ」の本来の意味には「気持ちのいい場所」という意味が含まれています。アイヌの女性が結婚するときは、結婚相手となる男性がどんな「チセ」に住んでいるか、つまり、気持ちのいい場所に住んでいるかどうかが問題で、建物ではなく、環境そのものを重視しているのです。今はタワーマンションの高層階に住んでいることが結婚相手の条件かも知れませんが…。

冒頭で「自然との連続性」という話をしましたが、水と土との複合である泥は、微細な風や微細な水の棲むところであり、どのような形をとろうとも、自然との連続性を保っています。かつて私たちはこの泥をもって土塀を築き、壁を塗り、泥の土間で仕事をしたものです。住まいは泥を通して自然と連続していたのであり、「泥壁」は住まいの中に今なお残る泥の「地べたの記憶」といえます。

私たちが住まうとは地べたに住まうのであり、地べたから離れて住まうことはできません。泥は泥だけで終わることはなく、泥のあるところには種子が芽生え、雑木が育ち、虫が集まり、鳥が来ます。泥の干潟には貝がわき、魚が生まれ、海鳥が群れます。この生命の誕生の場であり、死ぬ場所である泥と、私たちが住まいに取り込んだ泥は同じ泥です。かまども壁も塀もやがては泥に帰っていくのです。

泥壁は、人に最も近い「自然」

不純物を取り除き、人間にとって都合のよい成分だけを抽出して生み出される不純物を取り除き、人間にとって都合のよい成分だけを抽出して生み出される
人工的材料に対して、様々な素材の複合である土壁は、多様な存在を許容する自然そのもの姿だと語る小林氏。人工的材料に対して、様々な素材の複合である土壁は、多様な存在を許容する自然そのもの姿だと語る小林氏。

不純物を取り除き、人間にとって都合のよい成分だけを抽出して生み出される人工的材料に対して、様々な素材の複合である土壁は、多様な存在を許容する自然そのもの姿だと語る小林氏。

―「帰っていく」姿が美しさや愛おしさに繋がっているのだと思います。また、職人と道具の関係も、人と技術の本来的なあり方を表していると思います。

鏝(こて)は左官にとって「手の延長」です。道具ですよね。機械ではありません。ある意味、今の建築現場は道具を捨てて、機械でつくるようになったということです。道具は人の身体感覚と相まって役割を果すものです。鏝を当てれば平らかどうか分かります。僅かな歪みも察知する指先の感覚は凄いものです。そういう感覚を機械が肩代わりしていくわけですが、機械には感覚や感情がありません。人の感覚が伴っている場合は五感を駆使して仕事をしているわけです。ですが機械が介在することで人の感覚は視覚くらいしか使わなくなりました。社会全体としても五感は分離してしか使われない傾向になっていると思います。そういう意味で左官が塗る土壁は五感で感じるものであり、自然と乖離しつつある人間社会の中で、最も近い「自然」をもたらしてくれる存在なんです。

それから、かつての民家は「結ぶ」ことでつくられていましたから「ほどく」ことができました。泥壁は固まっていますから落とすわけだけど、落とした後にまた塗れるわけです。それに比べ、現代の建築のほとんどは破壊や廃棄に終わるしかありません。元に戻ることのできない技術の上に立っており、破壊のほかに出口を知りません。ほどくことができる戦前の民家も何の苦もなく破壊されています。結ぶこととほどくことができる、建築の前にも後にも建築がある、「建築の無償性」たる所以です。土壁は人間と自然を結ぶ、土と水の技法であり、現代の建築が失ったものが土壁にあるのだと思っています。

―とても象徴的なお話です。「感情」という言葉が出ましたが、小林さんは「祝祭の気分」という言葉もよく使われます。

お祭りのときは大勢の人が集まっていても気分がいいですが、同じ大勢の人がいるにしても東京の地下鉄のような状況ではいい気分はしません。お祭りの気分は開放された中にこそあり、閉塞された中には生まれないのです。建築でも同じです。かつての職人はある程度自由度がある中で仕事をしていました。ギチギチに決められた中での仕事には祝祭の気分はないのです。これは人間にとって一番大切なことだと思います。建築をすることが喜びなのか、苦しみなのかということです。こういう言い方をすると誤解を招くかもしれませんが、建築はもっと大らかでいいのだと思います。よく左官の仕事を「アバウト」で「ランダム」で「ノープロブレム」という言い方をしますが、少しくらいひびがあっても、隙間があってもいいのです。相手は自然なんですから。性能が高いほどいいとか、完全じゃなきゃいけないとか、住まいとはそういうことではないと思うのです。そんなことより、地域に開かれ、地域の人たちと共に喜べる建築をつくる。建築は住まい手のものだけではないのです。社会のものであり、住まい手が変わってもいつまでも残っていく建築であるべきです。

―「家を建てる」ことが特別なことになり過ぎている気がします。高いお金を出すが故に完全を求めるのかもしれません。「自分の家」という意識が強過ぎると、「大らかさ」は許せなくなるのでしょう。

地域に開かれた「建築の姿」

小林氏の著書『左官礼賛』(石風社)と『泥小屋探訪』(INAX出版)。

小林氏の著書『左官礼賛』(石風社)と『泥小屋探訪』(INAX出版)。

僕らが子どもの頃は建前があると喜んで餅を拾いに行きました。建前のときだけじゃなく、建築現場というのは地域に開かれていて、僕たちの遊び場でした。職人さんたちも邪魔にせず、鉋屑(かんなくず)をよく拾ったものです。でも、今は現場は全て囲まれ、ハウスメーカーなどは鉄板で囲み、中が見えないようにしています。現場に置かれているものは道具ではなく機械ですから、子どもが触れたら大変です。だから子どもが遊びにくるなど論外ですよね。開かれた現場は個人のものだけではなく、地域のものという認識がありました。だから共に喜び、現場には祝祭の気分が満ちていました。

―自然素材に囲まれ、大工や左官が活き活きと仕事をする現場や工務店の姿を地域に開くことは、地域の子どもたちに「無償性への感受性」を育むきっかけになるでしょう。その子どもたちが将来どういう住環境を求めるか、遠回りですが、地域に生きる工務店は本物の家づくりを地道に続けることが、最大の差別化になるわけです。現代のほとんどのモノつくりが工業化される中で、現場のある家づくりだけは、工業化されないことを許されている仕事だと思います。

年配の職人さんたちは人がいい方ばかりなんです。何で「気持ちがいい人」ばかりなのか真剣に考えたことがあります。結論は、彼らは「自然を相手にしているから」ということだと思いました。自然は多様です。画一的ではありません。故に、自然を相手にしていると思い通りにいくことばかりではないわけです。ひびの入らないように施工しても完全にはいきません。自然に対する感受性というか、自然は人間を超えた存在であるという感受性をどこかで持っているから、大らかでいられるのです。ある意味、彼らは救われていると思います。人を相手にした仕事は「勝つか負けるか」「白か黒か」という相対的な世界で、逃げ道がありません。それはとてもしんどいことです。対峙するのが「自然」というのは、逃げ道があるわけです。最後は自然にまかせればいいのです。ただ、そんな彼らも今や相手は自然ではなく、新建材に変わりつつあるということです。

-土壁が傍らにあることは、意識するしないに関わらず、人に影響を与えていると思います。新建材で表情を真似ることはできても、新建材は自然素材のように劣化していかないですよね。そこにはエイジングの美はないわけです。これまでの価値観はまさに「劣化しない」ことにありましたが、これからは「劣化するからいい」、「劣化するから安心、希望がある、未来がある」という価値観が生まれてくるように思います。小林さんが話された言葉を、感受性を持った若い人たちが受け継いでくれることを願います。今日は本当にありがとうございました。

小林澄夫(こばやし・すみお)

1943年、静岡県生まれ。1968年明治大学卒業後、黒潮社に入社。以降、月刊『左官教室』の編集に40年以上に渡って携わる。1990年頃より奈良の葛城古道や山の辺の道で見た納屋の泥壁の美しさに惹かれ、泥小屋を求めて全国を訪ね歩く。鏝絵の写真家・藤田洋三氏と「お石灰探偵団」を結成。全国の鏝絵や石灰や貝灰の窯場を見て歩く。久住章氏など優れた左官職人と建築家を結び、石山修武氏の伊豆の長八美術館等、現代建築に塗り壁復活のきっかけを与える。著書『左官礼賛』『左官礼賛=泥と風景』(共に石風社)。他に『泥子』『詩集 済州島』などの自費出版がある。

小林澄夫(こばやし・すみお)