OM誕生物語

前編/技術の誕生

OMソーラーは、1987年、静岡県浜松市で誕生しました。しかし、その誕生までには考案者・奥村昭雄を中心とする、さまざまな「面白がり屋」たちの長年にわたる試行錯誤がありました。OMソーラー「前史」のお話です。

後編/組織の誕生

建築家たちの取り組みは、浜松の工務店へ、そしてそこから地域の工務店へと伝わり、建築デザイン運動として全国に広がって行きます。OMソーラーの誕生です。

前編/技術の誕生

■前史

1.NCRビル(1962)―ダブルサッシュシステム

OMソーラーとは「熱と空気をデザインする」ことです。OMソーラーを考案した奥村昭雄は、吉村順三設計事務所の所員だった頃に赤坂・溜池にあるNCRビルで、すでに熱と空気をデザインすることを試みています。NCRビルは三角形の平面を持ち、どの面にも陽が当たりました。陽が当たっている面の熱負荷は当然ながら太陽の移動に伴って変動していきます。室内環境の変動を少なくするにはどうしたらいいか、生物のように建築の外皮に外界の変動の影響を縮小する能力を持たせることができないだろうか、考え出された結論がダブルサッシュシステムでした。
建物は換気のために常に新しい空気を取り入れ、同じ量の空気を排気しています。そして、排気される空気は調節された室内の空気と同じ温度を持っています。このシステムは、この空気を屋根まで繋がる二重のサッシュの間に送り込むことで、建物全体をある程度の温度を持った空気で包んでしまうというものでした。外側のガラスに熱線吸収ガラスを使うことで、浮力によって日射を受けている面に排気が集中することになり、冬の熱負荷軽減だけでなく、夏の日射による室温上昇も抑えることが期待されました。これら建物そのものの自律的な温度調節能力によって、このビルは他のビルに比べて重油の総使用量が35%少ないという結果が示されました。
この時代は、「エネルギーの使用量がその国の文化レベルを示すバロメーターであり、エネルギーの浪費が雇用を促進し、景気を維持する」という、今では信じられない考え方が通用していました。奥村はNCRビルの仕事について後に次のように語っています。「私はこの仕事の経験から、室内環境の改善と省エネルギー化は一見反対のように見えるが、実は同じ方向を向いたものであると考えるようになった。室内環境改善の努力は省エネルギーを生む。エネルギー多消費の方向では、決して望ましい室内環境は得られない、と」換気を自然エネルギーの利用手段として捉えた点は、後のOMソーラーとも共通しています。1962年、奥村昭雄30代はじめの頃の仕事でした。

赤坂・NCRビル(現在は、日本財団ビル)。周囲を道路の囲まれた三角形の敷地に建っている。

赤坂・NCRビル(現在は、日本財団ビル)。周囲を道路の囲まれた三角形の敷地に建っている。

NCRビル断面図。二重ガラスの間の幅は45cmほど。掃除ができる最低限の寸法を、奥村は模型をつくって検証したという。

NCRビル断面図。二重ガラスの間の幅は45cmほど。掃除ができる最低限の寸法を、奥村は模型をつくって検証したという。

2.星野山荘(1973)―煙道熱交換式ストーブ

奥村は、1973年に完成した星野山荘で、より踏み込んだ暖房方法に取り組んでいます。敷地は軽井沢の雑木林の傾斜地にあり、なるべく木を切りたくない、小鳥を間近で見たいなど、美しい景色を室内に効果的に取り入れるため、木造2階建てを鉄筋コンクリートの1階が支えるような構造を採用し、コンパクトな3階建てとしました。また、吉村事務所では早くから温水式床暖房を数多く手掛けており、奥村はその心地良さを十分に理解していました。奥村は「温水式床暖房はよく言われているように高価なものでも、技術的に難しいものでもなく、むしろその反対で、建築家のいわば素人の手の内で容易に扱えるやさしい技術であった。室温は低めで良いからエネルギー消費も少ない」と語っており、星野山荘でも床暖房を採用することを考えました。
しかし、温水式は凍結の危険性が高いため寒冷地には不向きであり、当時吉村事務所でも手掛けていた温風式にトライすることになります。ところが、大地の温もりのような床暖房の良さは、山荘のような間欠的な使用の建物では逆に欠点になってしまいます。冷えきっている建物を温める時のスタートダッシュがきかないからです。凍結の心配がない温風式は水式に比べ熱を運ぶ能力が低く、より一層立ち上がりが遅くなります。1日か2日しか滞在しない山荘では、やっと暖かくなった頃には帰り支度ということにもなりかねません。であれば、石油ストーブを使えばとりあえずの立ち上がりは速く、出力調節幅も大きくなります。熱効率はせいぜい60%であり、その証拠に煙突を引き廻しただけでも随分暖かくなります。その煙突の排熱を床暖房の熱源として利用したのが星野山荘でした。
具体的には、煙突の廻りに熱回収するためのダクトを付け、煙突とダクトの間の温風を小さなシロッコファンを使って床下に送り込みます。もちろん、石油ストーブ本体からの対流によっても熱を運びます。しかし、たった一台のストーブを熱源として3層の空間を暖めるには自然に発生する小さな温度差を動力源として、分散した対流が熱を各部に運ぶように空間を作らねばなりません。強い上昇気流は不快な下降気流を生むため、空間の形状や建具、衝立などで分流させたり、下降気流が起こる開口部付近には床下からの温風の吹き出し口を設けて下降気流に対抗させるなど、室内空間の微気象を意図的に調整する必要がありました。
星野山荘の結果はとてもうまく行き、工事費も安く抑えられました。この暖房方法はその後、一般の小住宅でも採用され、後に空気集熱を行うOMソーラーと馴染みが良いことからOMの補助暖房システムとしても利用されました。星野山荘の所有者は奥村の弟であったことから、後に奥村は「失敗しても許される」と振り返っています。別名「奥村式ポットストーブ」と呼ばれているこの暖房方法は、室内空間の微気象的捉え方、つまり、目に見えない「熱と空気のデザイン」を実践したという点でOMソーラーの集熱を分布させる基本的な考え方を構築することになりました。

星野山荘。奥村が描いた断面ラフスケッチ。「熱と空気のデザイン」の検討がなされている。

星野山荘。奥村が描いた断面ラフスケッチ。「熱と空気のデザイン」の検討がなされている。

星野山荘内観。ストーブの後ろのバルコニーは、暖気の上昇を抑え、人がいる空間での暖気の滞留時間を長くしている。

星野山荘内観。ストーブの後ろのバルコニーは、暖気の上昇を抑え、人がいる空間での暖気の滞留時間を長くしている。

星野山荘はOMソーラーの家の原点ともいうべき建物。

星野山荘はOMソーラーの家の原点ともいうべき建物。

3.伊奈町の家(1978)―ソーラーハウス

奥村が取り組んだはじめてのソーラーハウスが伊奈町の家でした。意外にもはじめてのソーラーハウスは水集熱方式でした。世の中にソーラーシステムが出はじめた頃で各メーカーがソーラーパネルの開発に取り組んでいる頃でした。水集熱を選択したのは伊奈町の家の施主が設備設計者であり、施主からの積極的な提案があったためです(「空気」に比べ熱を運ぶ能力が圧倒的に高い「水」を熱媒にすることが設備屋の常識でした)。現場製作の水集熱式屋根面と基礎を兼ねた水と砕石の蓄熱槽を持ち、ファンコイルにより熱交換し温風をつくるしくみです。温風は床材(コンクリートに中空層が入っているアスロックという製品を使用)の中空層を通り建物の南北面に沿って室内に出てくるというものです。
伊奈町の家では補助暖房として煙道熱交換式ストーブも併用されており、煙道熱交換した温風も床の経路はソーラーによる温風と同じ経路を辿ります。ただ、室内に出た後はソーラー系が廊下天井内チャンバーからファンコイルに立ち下がり、補助暖房系は吹抜け上部から煙道熱交換ダクトへ戻ることになり、建物中央を東西に走る床下ダクトで二つの系統は再び合流します。補助暖房系ダクトから床下ダクトへの入り口はソーラー系からの逆流を防ぐためのダンパーが設けられています。伊奈町の家では基礎を兼ねた大きな砕石が詰まった蓄熱槽と床のアスロックによる蓄熱を試みていますが、まだこの段階では建物の躯体自体の蓄熱性を積極的に利用するといった考え方は、まだはっきりと意識していたわけではありませんでした。
そして、伊奈町の家の経験から奥村は水集熱のリスクについてあらためて次のように語っています。「この水集熱式ソーラーシステムの非常に難しい点は、一滴も水が漏らないようにしなければならないことです。膨張収縮を起こして凍る危険性もある。この住宅の場合は夜間になると、たしか水を下の蓄熱槽へ落とすように考えたと思います」結局、水集熱を採用したのは伊奈町の家が最初で最後になりました。

伊奈町の家は最初で最後となった水集熱式のソーラーシステムが採用された。

伊奈町の家は最初で最後となった水集熱式のソーラーシステムが採用された。

4.大泉学園の家(1979)―空気集熱+蓄熱

伊奈町の家のすぐ後に、空気集熱によるソーラーハウスに取り組みます。それが「大泉学園の家」です。集熱屋根は伊奈町の家と同じように現場作業で施工可能な方法をとり、ダクトも全て建築と一体化しています。1階に水まわりと寝室、2階はほとんどワンルームで居間、食堂、台所を配置、屋根の勾配は効率からすると急勾配のほうが有利ですが、北側斜線の制約とメンテを考え3寸となっています。集熱空気は2枚重ねの大波鉄板の中を通るよう計画され、建物南の壁面も集熱面として使い、冬期は屋根面よりも集熱に貢献しました。ポイントは、1階和室8畳の床下に砕石12トンが入る巨大な蓄熱槽(もちろん、今となっては“巨大”という表現になりますが、当時としてはそれが適切な大きさという認識でした)を設けたことです。地盤が硬く良好だったため、ブロックを円形に積んだブロック造で、断熱材は地盤面から1mまでとし、多少地中蓄熱的な考えも取り入れています。機械室はシロッコファンを利用し、夏型、冬型、集熱型、補助熱源型に対応させるため少し複雑なダクティングが行われています。
一般的ではなかった空気集熱に試行錯誤しながら取り組んだ、はじめてのソーラーによる「熱と空気のデザイン」の試みは結果的には思惑通りにはいきませんでした。当時、奥村事務所の所員として、また藝大奥村研究室の助手として大泉学園の家の設計に携わっていた丸谷博男は、後にこの仕事を次のように振り返っています。「太陽とつきあう中で痛感したことがいくつかあった。とにかく、太陽熱は限りないエネルギーであるが、利用しようと思ったときには大変希薄なエネルギーなのである。したがって、できるだけ熱移送を避けるとともに、人間が利用する形で蓄えることが重要な点であると痛感した。つまり、建物の躯体自身に蓄熱し室温との温度差に比例して熱放出を制御することが良いと考えられた。そしてこのような考え方そのものが、パッシブソーラーの思想であることに思い至ったのである」一日分の熱量を蓄熱するために設計された巨大な蓄熱層から再び熱を取り出すことができなかったのです。大泉学園の家は丸谷の両親の家でもありました。竣工から10年後に内外装の塗り替えなどとともに温熱環境についても一連の改造が行われ、現在でもしっかりとソーラーシステムが働いています。
そして、当時の奥村事務所のスタッフ、関連する建築家、研究者を中心に、「大泉学園の家」で起こった難問を解決することを当初の目的とした私的な研究会が立ち上がりました。それが後にOMソーラーを生み出すことになる通称「ソーラー研」と呼ばれる集まりでした。第一回、ソーラー研の議事録風メモには1981年4月11日の日付が記されています。

空気集熱による太陽熱利用を試みた大泉学園の家。

空気集熱による太陽熱利用を試みた大泉学園の家。

大泉学園の家の砕石層。床下に直径3メートル、深さ3メートルの蓄熱槽をつくり、12トンの石を、一つひとつ洗って、重さを量って入れた。

大泉学園の家の砕石層。床下に直径3メートル、深さ3メートルの蓄熱槽をつくり、12トンの石を、一つひとつ洗って、重さを量って入れた。

5.「ソーラー研」の誕生(1981)

第一回の「ソーラー研」参加メンバーは、奥村昭雄、奥村まこと、当時奥村事務所のスタッフだった植木秀視、木村韶子、丸谷博男、稲田豊作、石田信男で、アクティブなソーラーハウスとして知られていた山田初江邸(材木座の家)に関わったサンスイエンジニアリングの山口賢氏がゲストとして参加しています。終盤にはOM創業メンバーが顔を出し、OMソーラー協会、OM研究所(共に当時)が設立されるまで30回以上開催されています。「大泉学園の家をなんとかしたい」ということがきっかけとなり発足した「ソーラー研」ですが、議論の中心はまさに、太陽を熱源とし「熱と空気をどのようにデザインできるか」ということにほかなりませんでした。
第2回の会合から参加している野沢正光は「ソーラー研」について後に次のように述べています。「ソーラー研は石油ショック後のエネルギー問題を起点とし、太陽エネルギー利用と建築と環境設備との関連について考えることが面白い、そう思う人々が相互に触発しあいながら様々な思索をめぐらされ展開される集まりであった。そして、そこはそのきっかけが“屋根利用による空気集熱システムの課題の解決”であったことからもエネルギー搬送の媒体としての空気利用の適正な展開にあった。つまり、後にOMソーラーとして結実する屋根による空気集熱について、当初から“それでいけるであろう”という確信を共有する集まりでもあった」。石田信男も「それでも最初のうちは何を熱媒にするか、はっきり決まっていなくて、水と空気の両方を検討していたら、工学院大学で環境と空調を研究している大橋一正さんが来てくれて、いろいろな話を聞いているうちに空気のほうがよさそうだという方向に意見が固まった」と述べています。
「大泉学園の家」以降、「春建会館(1982静岡県)」では屋根空気集熱+排熱塔+豊富な地下水を利用した水熱源ヒートポンプ利用、「赤堤の家(1983)」ではダイレクトゲイン(床蓄熱+北側送風)+煙道熱交換式ストーブ+地熱利用、「新田体育館(1983群馬県)」では屋根空気集熱(夏排熱)+ダイレクトゲイン+床下コンクリート蓄熱+ポケコンによるシミュレーション、「逗子小坪の家(1985神奈川県/野沢正光設計)」では屋根空気集熱(室内循環)+コンクリートブロック床・壁蓄熱+ファンコイルによるお湯採り、「小田原の菓子店(1986神奈川県/石田信男設計)」では巨大ではあるもののハンドリングボックスが登場し、「阿品土谷病院(1987広島県/奥村昭雄・野沢正光共同設計)」ではガラス付空気集熱+外気取り入れ型集熱に取り組まれており、結果的にソーラー研参加者の活動がそのまま「OMソーラー」として技術が結実していく過程であることがわかります。ソーラー研メンバーの一人だった大橋一正氏は協力した「逗子小坪の家」を振り返り、次のようにレポートしています。「建築計画とは、内と外の境にある遮蔽物のプランニングであり、設備システムは自然エネルギーという素材をどう料理し、おいしく食べ、排泄するかのプロセスを組み立てることにほかならない。そんな基本原理に戻ってつくり上げた」まさにパッシブ建築を言い表した言葉といえます。

ソーラー研の様子。建築家・技術者・研究者が集まり、議論が重ねられた。

ソーラー研の様子。建築家・技術者・研究者が集まり、議論が重ねられた。

春野町建設事業協同組合の建物。

春野町建設事業協同組合の建物。

赤堤の家。

赤堤の家。

逗子小坪の家。

逗子小坪の家。

6.新田体育館(1983)―シミュレーション

群馬県太田市新田にある日野自動車・健康保険組合のための体育館(以後「新田体育館」と呼ぶ)は、「シミュレーション」という概念を取り入れて計画された画期的なパッシブ建築といえます。建築地はいわゆる内陸的気候で、冬の晴天率が高く、年間を通して昼夜の温度差が大きいところでした。冬に北北西からの季節風(いわゆる「赤城おろし」)が強く、この風の対策ができれば、パッシブシステムによる効果が大きい場所です。冬の風は平面配置と断面計画により対処し、大きな屋根面での空気集熱を、床下コンクリートに蓄え、ダイレクトゲインと合わせて冬の床表面温度を高めるように計画されました。夏は屋根面の排熱と体感に影響する低いレベルでの通風を図りました。
パッシブシステムでは、熱取得と同時に熱を逃がさない断熱計画が重要となりますが、体育館という大架構構造で断熱を強化することはコスト的にも限度がありました。結局、床下のコンクリートベッドに蓄熱して、床表面温度を上げるという手法を採ったのですが、シミュレーションをしながら、その結果を計画やディテールに反映させていくことにより、アマチュアスポーツの施設としては夏冬共に大変快適な状態が得られるという結果となりました。
奥村はシミュレーションについて次のように振り返っています。「パッシブシステムの設計では、得られる熱量がどのくらいになるか、その熱が建物にどう蓄熱され、どう流れていくかを予測する必要が起こる。それによって建物自体の計画やディテールのやり方を決めたり修正することができる。(中略)計画段階や現場段階では、このポケコンによるシミュレーションが活躍した。室温変動の概略がつかめただけでなく、各部のディテール決定に役立った。例えば体育室の床が現場段階でより質の良い厚いものが使えるようになった。しかし、床下に蓄えた熱が室内に出にくくなる心配があった。シミュレーションの結果は、厚い木の熱容量のもつ効果がきいて、かえって室温に良い影響が出ることがわかった。床下のエキスパンドメタルの放熱・整流板や形状記憶合金ダンパーの作動温度を望ましい季節・温度にするための予測、必要断熱材厚など、シミュレーションは目的にかなった必要十分なディテールを探す上で威力を発揮した」これらの言葉は、勘や経験に頼り、手探りで熱と空気のデザインに取り組んできた段階から、シミュレーションという強力なツールを得たことで、パッシブデザインが新たな段階へ進化したことを物語っています。因みに、最初のシミュレーションはポケットコンピューターによって行われ、そのポケコンは研究室の学生からクリスマスプレゼントとして贈られたものでした。

設計ツールとして初めてシミュレーションが用いられた、新田体育館。

設計ツールとして初めてシミュレーションが用いられた、新田体育館。

運動する場所としては十分な環境をつくることができた。

運動する場所としては十分な環境をつくることができた。

7.阿品土谷病院(1987)―「外気」の利用

新田体育館で試みたポケコンによるシミュレーションプログラムが完成したことは、経験による思い込みに囚われない、新たな発想を生み出すきっかけも与えました。それまでのソーラーシステムは空気集熱式とはいえ、いずれもクローズドな空気によるシステムでした。熱を運ぶための空気は、室内の空気を利用していたり、密閉されたダクトや管の中の空気を利用していたのです。ある日、「逗子小坪の家」を見た奥村はポケコンを取り出し「この家なら外気を取り入れたほうがいい」「外気を取り入れても同じ温度になる」と言い出したのです。それまでのシステムでは熱負荷を軽減するために少しでも高い温度を持った空気を熱媒として利用したいという思いがありました。それが室内など閉鎖された空気を利用する理由でした。しかし、室内の空気(特に気密性が高い建物で)は、人間が過ごすことで炭酸ガスなどにより汚染されていきます。つまり、「換気」の問題は別途考える必要がありました。ところが、シミュレーションすることで、新鮮なしかし低温の外気を取り入れても、室内空気を循環した場合と、集熱屋根により取得できる到達温度にはほぼ差がないということがわかり、実測からも確認されたのです。

阿品土谷病院は、外気導入によるパッシブソーラーシステムの開発にとってまたとない機会になりました。ゆったりとした敷地だったため建物は全て低層でまとめられ、二層のリハビリ棟と三層の病院棟が、スロープ、待合室、ラウンジ等で囲まれた中庭で繋がっています。一般的に病院は質の高い温熱・空気環境(院内感染対策等)が要求されるため消費エネルギーが大きく、しかも停電などを想定したバックアップシステムも必要とされます。また、屋根集熱面の方位が南から大きくずれていたということもあり、阿品土谷病院ではパッシブシステムとアクティブシステムを結合した方式を採用し、アクティブ系の熱源もコ・ジェネレーションによる排熱を利用することにしました。併せて、ダイレクトゲインをあまり多く取り込むことが期待できなかったため、小さなサンルームを介在させています。病室では衛生環境としてもニオイ対策としてもできるだけ換気回数を多くしたいものの、一般的には換気回数を増やすことは熱負荷を増加させてしまうことになります。この病院の計画では屋根集熱面に送り込む空気が室内からであっても、冷たい外気であっても最終的に得られる集熱温度はほとんど変わりがないというシミュレーションの結果が得られ、新鮮外気を取り込むことにより、ソーラーシステムそのものの機能から十分な換気回数を得ることに成功しました。
この病院の設計に携わった野沢正光は阿品土谷病院についてOMソーラーとしてエポックメイキングな建物であったと後に語っています。「ここでの空気集熱システムは、アクティブな技術を含んだたくさんの適応技術の一つとしてデザインされたものであったが、このとき初めて実測と計算値との検討によるシミュレーション技術の構築のため、設計段階で実大屋根モデルを作り長期測定をするなど、いわゆる建築設計の敷居を超えた作業を繰り返した。(外気導入により)室内をプラス圧とすることで隙間風の進入をしにくくすること、室温を各部で一定となるよう設計し、室内の壁・床・天井など、“もの”の温度を室温に近くすることにより、輻射、対流などによる室内気流の不快を取り除くことなどの効果と意味はこのプロジェクトで実証され、経験として我々のものとなった」「パッシブソーラーシステムそのものがベンチレーションのシステムとして機能することになった。病院の空気の汚染度をチェックした人も、こんなに空気がきれいであることに驚いていたし、温度分布もすごく良かった」「阿品土谷病院のサーモグラフィの画像を見て、天井、壁、床、開口部の温度差の無さに驚いた研究者が“こんな画像を見るのは初めてです”と言ったことを今思い出す」
阿品土谷病院はパッシブシステム・アクティブシステムの併用により、病室の温度変動を床と天井、窓側と廊下側、昼と夜を通じて2℃以内という環境を実現し、太陽熱の熱媒となる空気を全量新鮮な外気によるワンウェイ方式としたことから質の高い空気環境を実現しました。しかも、需要サイドのエネルギー使用量を減らすことなく、供給サイドのエネルギー総量を1/3にすることができたのです。この建物は、エネルギー負荷を大幅に減らしながら、きわめて質の高い建物を実現した好例ということで、後に「建設省エネルギー賞(建設大臣賞)」をはじめとする、様々な賞を受賞しています。
NCRビルからはじまった「熱と空気をデザインする」探求は阿品土谷病院の完成により一つの区切りを迎えました。1981年4月から1988年7月まで8余年、延べ32回、約50人の参加者を数え活動してきた「ソーラー研」の活動も阿品土谷病院の完成と時を同じくして幕を閉じています。そして、この幕は同時に新たな展開の幕開けへと続いていきます。ソーラー研が母体となり「OM研究所」が設立され、地域工務店への広がりの母体となるべく「OMソーラー協会」が設立され、パッシブデザイン、パッシブ建築の建築デザイン運動へと発展していくことになりました。「試みることの大切さ、おもしろさ」「実践者を中心に集団的な英知で問題を解決する」「互いに学び合う」といったソーラー研の精神はそのまま引き継がれ、現在でも「OM的なあり方」として脈々と受け継がれています。

瀬戸内海の宮島を一望する高台に建つ、阿品土谷病院。ここでは「外気集熱」が試みられ、「換気」という機能が付加された。

瀬戸内海の宮島を一望する高台に建つ、阿品土谷病院。ここでは「外気集熱」が試みられ、「換気」という機能が付加された。

1997年には、建物の西側に老人保健施設「シエスタ」も併設され、同じく太陽熱利用の空気集熱式床暖房としてOMソーラーが導入された。

1997年には、建物の西側に老人保健施設「シエスタ」も併設され、同じく太陽熱利用の空気集熱式床暖房としてOMソーラーが導入された。

■誕生

8.浜松の工務店との出会い(1982)

浜松の地域工務店、マルモ中村住宅が奥村と出会ったのは1982年のことです。当時マルモ中村住宅は「檜づくりのマルモ」を売りに、浜松でも中堅ビルダーとしての地位を築いていました。しかし、他の工務店による追随はどの時代にもあり、「檜といってもいろいろある」といって材質で勝負しているような状況で、このようなやり方ではいつまでたってもイタチごっこであることは分かり切っていました。当時からマルモ中村住宅では他社との差別化のために今でいう「住まい教室」のようなイベントを開催していて、ある時ヤマハ家具ショップと提携し、講演会を開催しました。その講師として招かれたのが奥村昭雄だったのです。
講演会で奥村は「長い好み・長い必要・長い寿命」というフレーズを用い、住宅の本質を語っていました。スライドに映し出された住宅は、それまで接してきた住宅とは異なるもので、イタチごっこから抜け出すヒントがこれらの住宅にあるのではないかという思いが、私たちの中に芽生えたのです。そして、付加価値を持った建売住宅の企画を立て、その設計を依頼するために、あらためて練馬・中村橋の奥村事務所を訪ねることになりました。奥村は「まず実際の建物を見てよ」と言い、向かった先が「大泉学園の家」でした。案内役は当時奥村事務所の所員で大泉学園の家の設計に携わっていた丸谷博男でした。空気集熱によるソーラーシステムの初めての試みだった大泉学園の家は、後にOMソーラーへと繋がる大きな契機となる建物でしたが、その時の私たちの関心はソーラーシステムではなく、「空間のクオリティ」にありました。「隣の家の木を貰っちゃった」と、借景切り取りの技を嬉しそうに話す丸谷の表情と共に、ベニアのすっぴん仕上げ、食卓に低く吊られたペンダント照明など、シンプル過ぎると思われる家の仕上げに心を打たれたのです。それに比べ、まだ手探りの状態だったソーラーシステムは、12トンもの砕石蓄熱槽を持ったあまりに重装備なもので、この技術は我々(地域工務店)が扱える技術ではないというのがその時の正直な印象だったのです。
結局、企画型の建売住宅には煙道熱交換式ストーブが採用され、隣り合う2つの住宅として売り出されました。そして、ここでの煙道熱交換式ストーブの経験が、「熱と空気のデザイン」へ向かうための道筋であったことはいうまでもありません。その後、マルモ中村住宅のスタッフが「ソーラー研」のメンバーとして名を連ねるようになり、「ソーラーシステム」と「地域工務店」の繋がりがこうして生まれたのです。

9.浜松・天竜川モデルハウス(1986)

地域工務店が自ら手掛ける住宅に空気式ソーラーシステムがはじめて組み込まれたのが1986年のことでした。それが、マルモ中村住宅が天竜川駅南展示場に出展したモデルハウスでした。このモデルハウスは「現代民家」とネーミングされ、大きな屋根、深い軒、呼吸する壁など、民家の表情を持っていました。もともとパッシブシステムは、気象条件、立地条件など地域性を理解することが必要であり、自然と共存していくことが基本です。これは日本の伝統的な民家や町家などにも共通している考え方でしたから、パッシブデザインと地域工務店は元来「蜜月の関係」だったはずであり、出会うべくして出会ったといえます。そして、この出会いが「蜜月」であったことは、後にOMソーラーが全国の地域工務店に広がったことが証明しており、OMソーラーと地域工務店の関係を成立させる考え方の根幹を支えることになりました。

しかし、長年、建築家が試行錯誤してきた技術を地方の一工務店が一朝一夕に真似ることは簡単なことではありませんでした。当時は断熱や気密についての知識もあまりない時代で、もちろん、現在のような集熱パネル、ハンドリングボックス、棟ダクトなどの部材はありませんから、全て現場で手づくりするしかなく、空気が漏れないほうがおかしいという状況でした。奥村も「凝りに凝った和風のデザインは良かったけれど、実はあのモデルハウスはOMソーラーとしては能力不足だった」と振り返っており、工務店がこの技術を会得するにはそれなりの手間や時間を要することを伺わせました。しかし、建築地が浜松という気候温暖な地だったことから陽射しがあり、風が穏やかな日であればソーラーシステムは良く働き、日中はそれなりの快適さをもたらしました。そして、工務店らしからぬ和風デザインは評判になり、1987年の元旦を期して開かれた完成見学会では1000人を超える来場者が訪れ、文字通り「千客万来」となったのです。
評判は評判を呼び、地方の一工務店のこの取り組みが共同通信を通じて全国の地方紙に掲載されました。記事に目をとめた幾つかの工務店から早速問い合わせが入り、「とにかく浜松に行く」「モデルハウスを見せてほしい」などの反応を受け、あらためてパッシブデザインと地域工務店の関係性の強さを認識し、次第に「この技術は浜松の一工務店に留めておくものではないのではないか」「地域を拠点とする全国の工務店がこのシステムを担うのが、このシステムの性格に最も適っていることではないか」という思いが強くなっていったのです。

当時のマルモ中村住宅のパンフレット。

当時のマルモ中村住宅のパンフレット。

OMソーラー第一号となった、マルモ中村住宅の浜松・天竜川モデルハウス。「現代民家」と名づけられた。

OMソーラー第一号となった、マルモ中村住宅の浜松・天竜川モデルハウス。「現代民家」と名づけられた。

現代民家内観。柔らかい温熱環境をつくるOMソーラーの特性を活かし、伸びやかなひろま空間を実現した。

現代民家内観。柔らかい温熱環境をつくるOMソーラーの特性を活かし、伸びやかなひろま空間を実現した。

10.「OMソーラー」の誕生(1987)

「大泉学園の家」を何とかしようと活動をはじめた「ソーラー研」の中でもソーラーシステムやパッシブデザインのトライアルを地域工務店に広められないか、全国の地域工務店をたばねる運動になるのではないか、という話し合いがなされています。しかし、ソーラー研に参加していた何人かの建築家からは否定的な意見ばかりが出されました。「こんな面倒なことをやる工務店があるかよ」「奥村ソーラーは秘技だから無理」といった具合です。奥村も「おれはいやだよ。そんなめんどくさいこと」と語っています。野沢正光は後にこの時のやりとりを次のように振り返っています。「私たちの試みを時折浜松から現われ、横目で見ていた彼ら(マルモ中村住宅のスタッフ)が、例の殺し文句を発します。“工務店はハウスメーカーの攻勢に苦しんでいる。この技術は地域工務店の武器となるはずである。そうした運動を起こしたいが協力してくれないか”こんな話であったと記憶しているが、正直、僕も奥村さんも建築家の考えたことが社会的な広がりをもった事例をほとんど知らず、そう考えたことが無惨な結末を迎える事となった事例しか知らないことから“やってみたら”という消極的展望しか持たなかった記憶がある」また、奥村も「でき上がったもの(天竜川モデルハウス)が大きな反響を呼んだ時、社長(マルモ中村住宅)の中村さんは普通の人とは一寸違う考え方をした。これは自分のところだけでやるべきではなく、地域工務店に広めて普及させ、それによってこの技術を向上させると一緒に、地域工務店自身の発展にも役立たせるべきだというのである。私はそんな面倒なことはいやだといったが、中村さんに押し切られてしまった」と語っています。

同じ頃、名称をどうしようかという話し合いもなされており、次のようなやりとりがありました。「パッシブソーラーということで“パッソーラ”はどうかと。そしたら“パッソーラ”というオートバイがヤマハにあった(笑)。それならこの際、“奥村ソーラー”としたらどうだという話もあったけど、これも“丸山ワクチン”みたいだというのでオジャン。ローマ字の頭文字をとって“OAソーラー”かと。でもOA機器みたいだから・・・、結局は奥村とマルモのイニシャルからOMに落ち着いた」そしてその後、奥村の希望からOMの「O」は「おもしろい」、「M」は「もったいない」ということに変更されましたが、自身の著書の中で奥村昭雄は名称と技術の性格に絡んで次のような言葉を残しています。「OMソーラーという名前が付いたときから、この技術は私の手を離れてひとりで走っている。大きなデザインの樹になって、たくさんの多様なデザインの花が咲くことを期待している」。

マルモ中村住宅のソーラー研参加メンバーを中心に「OMソーラー協会(代表・中村正彦)」が設立され、同時にソーラー研に参加していた主要な建築家から構成する「OM研究所(所長・奥村昭雄)」が設立されました。とにもかくにも、こうしてOMは社会に飛び出したのです。1987年2月のことでした。

大泉学園の家

大泉学園の家

後編/組織の誕生

■産声

11.第一回会員募集説明会

会員募集の説明会を知らせるDMが全国の工務店に送付されたのは「OMソーラー協会」「OM研究所」が設立されてすぐのことです。送られたDMはA3サイズのパンフレットが入る大きな封筒で、「やけに大きな封筒」は、それだけで受け取る人の目を留まらせました。第一回会員募集説明会は、1987年3月9日、グランドホテル浜松で開催されました。

説明会ではOM研究所のメンバーとなった丸谷博男が「これからの住生活と地域工務店の課題」という演題で基調講演を行い、その静かな語り口には大きな説得力があり、OMの正当性や信憑性を一手に支えました。また、OMソーラー協会からも「OMソーラー協会の事業と展望」「OMソーラーの意義と内容」といった話を行いましたが、やはり大きかったのは天竜川モデルハウスの持つ魅力でした。参加者はOMソーラーには半信半疑でしたが、モデルハウスについては感心しきりで、岡山県の水野浩さん(潮建設)は後にOMソーラーの機関誌で「柔和な現代民家造りに感動し、これはいけると直感した。あの時もし私自身が技術者であれば別な事を考えたかも知れない。なぜならばOMの性能について若干の不安を感じていたから」と答えています。モデルハウスを見学した参加者は、皆よきものに出会えたという顔をされていたし、実際に口にされていました。最初の会員募集説明会参加工務店は56社、この時に入会されたのは18社の工務店でした。
後になって振り返ると、この18社は「話に感心した」と「OMソーラーの技術に惹かれた」、「元々ソーラー研と繋がりがあった」、そして、「天竜川モデルハウスに惹かれた」など、工務店それぞれの動機や理由があったように思われます。しかし、全体を支えたのはやはり「設計」だったのです。天竜川モデルハウスには、直接的には奥村昭雄の助言があり、また背景には吉村順三の設計思想が働いていました。参加者は多かれ少なかれ、私たちが「大泉学園の家」を訪れた時と同じように、このモデルハウスが持つ空間のクオリティを率直に感じ取り、受け止められたのです。OMソーラーは単なる設備ではなく、設計そのものです。OMソーラーの出発が幸運だったのは、「設計」に感度を持つ工務店が先ず寄ってきてくれたことでした。

マルモ中村住宅・天竜川モデルハウス「現代民家」。

マルモ中村住宅・天竜川モデルハウス「現代民家」。

第一回会員募集説明会を知らせるダイレクトメールに同封されたA3サイズのパンフレット。

第一回会員募集説明会を知らせるダイレクトメールに同封されたA3サイズのパンフレット。

12.第一回経営者懇談会

最初の経営者会議が開催されたのは1987年の6月15,16,17日の3日間でした。経営者会議とは、全国のOM工務店が年一回、一同に集まり、OMソーラーの事業方針や戦略、具体的な取り組みなどについて報告を行い、それを受けて意見交換、協議などを行う会議で、当時は1日目に経営者懇談会(後に「経営者会議」と呼ぶようになる)を開催し、2日目に技術者研修会、3日目に営業研修会を併せて開催するなどして開催していました。後の経営者会議は大きな会場を有する地域有数のホテルで開催することが多くなりましたが、第一回目の会場は地元の中高生が合宿などで良く使う「サンビーチ浜松」という施設でした。しかし、会場の規模や雰囲気には気は向かず、何より研修会までにハンドリングボックスや棟ダクトといったOMハードの試作品が間に合うかどうかが当時の大問題でした。

3月の会員募集説明会以降、工務店からは次々に入会金が振り込まれ、預金通帳の金額はみるみる膨らんでいきました。しかし、それとは裏腹にそのときOMから工務店に送れるものは何もありませんでした。ただ、申し訳程度に「建築家によるプランニングアドバイス」なる制度を設けたり、「チラシ」や「設計カード」の送付、新聞の切り抜きに解説を付けた「ニュース」を発行するなどして、会員工務店からの信頼をつなぎ止めるのに必死でした。そして、ようやく独自のノウハウと呼べる「OM設計マニュアル」を送付できたのは、3月9日の会員募集説明会から77日後の5月25日だったのです。OM設計マニュアルの制作は、OMハードの試作と共に、OMのスタッフが中村橋の奥村事務所に詰め切り、奥村昭雄の指導を受けながら昼夜兼行で行われ、N設計室の越坂部幸子氏やアトリエ楽の野白麻理子氏、奥村事務所の仕事を手伝っておられた後藤京子氏や糟谷英一郎氏などにも手伝っていただきました。

関係者の必死の奮闘により、何とかハンドリングボックスや棟ダクトを研修会場に運び込むことができました。研修会場に持ち込まれたときの関係者の顔は何か誇らしげな表情に見えました。そして何より嬉しそうな顔をしていたのが奥村昭雄その人でした。奥村はハンドリングボックスを前にして立ち、嬉しい時の特徴である甲高い声で会員工務店に語り掛けていました。工務店は奥村を囲むようにして話に聞き入り、真剣な眼差しを産まれたてのハードに注いでいました。まずはハンドリングボックスと棟ダクトを見せることができ、第一回目の経営者会議、研修会は何とか無事に終えることができたのです。

OM草創期の頃の経営者会議の一コマ。当時は1日目に経営者懇談会を開催し、2日目に技術者研修会、3日目に営業研修会が開催されていた。

OM草創期の頃の経営者会議の一コマ。当時は1日目に経営者懇談会を開催し、2日目に技術者研修会、3日目に営業研修会が開催されていた。

13.お蚕さん

最初の量産型のハンドリングボックスはその形から「お蚕さん」と呼ばれました。OM前史でもハンドリングボックスがなかったわけではありませんでしたが、合板などを使って一軒毎に現場で制作されているもので、とても大きい上に性能にバラツキもありました。OMソーラーに工務店が取り組む場合、これをユニット化し、簡便に取り付けられるようにしなければなりませんでした。
試作品は試行錯誤しながら計4台作られました。「これなら」と完成した4台目の試作品を見に来た石田信男の反応はあまりにも象徴的でした。石田はあたりをキョロキョロ見廻して「ハンドリングはどこにあるの?」と聞きました。目の前にあるよと言われ、そのあまりの小ささに「えへーっ」と驚いたのです。石田は後にこの時のことを次のように振り返っています。「ソーラー研時代にハンドリングボックスを作った経験がありますが、どうしても、ものすごく大きくなっちゃうんです。1メートル角よりも小さくできませんでした。既製品を探してもそれより小さいものはありませんでしたから、やっぱりこんなに大きなものにしかならないんだと思っていたんです。それで見に行ったら実に小さいんだよ」石田が小田原の菓子店で試みたハンドリングユニットは背の高さくらいありました。

もちろん、現在のハンドリングボックスに比べれば、お蚕さんは大きく、後の経営者会議で展示した際に、参加者からどうしてこんなに大きなものを作ったのだと訝られたほどでしたが、当時としては画期的な小ささだったのです。その時、お蚕さんは20台ほど製造されました。
お蚕さんと同時に棟ダクトの制作も行われ、当初箱型だったダクトは気密を得ることが難しく、現場での収まりに難儀していました。屋根の勾配に合うように半円形にすれば気密を得られるのではというアイデアをOMのスタッフが思い付き、奥村に提案したところ「それはいいね」となり、試作品が完成しました。収まった形も美しく、発意したスタッフ自身も自分に興奮していました。

最初の量産型ハンドリングボックスはその形状から「お蚕さん」と呼ばれた。写真は2002年に横浜で開催された経営者会議にて展示されたもの。

最初の量産型ハンドリングボックスはその形状から「お蚕さん」と呼ばれた。写真は2002年に横浜で開催された経営者会議にて展示されたもの。

14.入会キャラバン

最初の経営者会議、研修会が無事終了したものの、会員工務店の数は発足当初の18社から一向に増えていきませんでした。奥村たち建築家の面々は「上出来だよ。5年かけて30社もいけば大変なことだよ」と話していましたが、私たちはそれでは技術を社会化したことにならないと考えていました。そして、パッシブの考え方は、古来から日本の家づくりの根底にあったもので、この考え方と乖離して家づくりが行われている現在がむしろ特殊であり、だからこそ地域工務店は苦戦を強いられているという考えを強く持つようになっていました。“自分たちが動かなければ何も動かない”などと狼煙を上げて、日本全国をキャラバンして仲間を増やしていくことを思い立ったのです。

全国25箇所の主要都市に会場を設定し、あらかじめ説明会の開催を知らせるダイレクトメールを各地の工務店に送付しました。DMにはOMソーラーに関する記事の切り抜き、チラシ、説明会の開催概要・参加申込書のほか、“長文の文書”を入れました。長文の文書は、OMソーラーという技術について、OM研究所、OMソーラー協会についての説明のほか、「地域工務店の置かれた現状と展望に立って」と題して、苦戦を強いられている地域工務店の実情と、本来的な地域工務店のあり方、家づくりについて綴ったものでした。

送付から説明会まで時間がなかったため、参加申込書が届く前にレンタカーをキャラバン車に仕立てて全国7000キロに及ぶ旅に出発しました。最初の会場である札幌から函館、八戸、盛岡、仙台、福島、宇都宮、前橋、千葉、水戸の順で開催したものの、ここまでの成果はゼロで、参加者がゼロの会場も1箇所ではありませんでした。東京では参加者が20人あまりと最多の参加者でしたが、ここでも成果はゼロでした。その後、横浜、静岡、甲府、松本と回り、10日間置いて後半戦に入り、山口県の徳山、広島、松山、神戸、和歌山、大阪、京都、岐阜、津、名古屋と回り、結局このキャラバンで入会されたのは3社のみという無残な結果に終わりました。しかし、私たちにとってこのキャラバンは何にも代え難い財産となりました。不安だらけの旅だったものの実に面白かったのです。私たちにとって、おそらく一生に一度あるかどうかの、魂に香を焚くような日々であり、この経験を経て、私たちの中でこの仕事が生涯の仕事となった実感を得たのです。

■成長

15. OMゼミナール

OMソーラーが誕生したその年、事業体としてだけではなく、運動体としてのOMの活動が産声をあげます。1987年11月17,18,19日の3日間を掛けて、箱根にて第一回OMゼミナールを開催しました。まだお金がなかった頃でしたが、講師として奥村昭雄、遠藤楽、山田初江、大石治孝、永田昌民、野沢正光、石田信男、秋山東一、中村勝、丸谷博男等々、豪華な顔ぶれで、当時、建設省・建築研究所にいらした小玉祐一郎氏にも登壇していただきました。皆、少額の手当と交通費、あとは「食べる、呑む、温泉に入る」をもって快くお集まりいただきました。

山田初江氏の歯切れのいい語り口、大石治孝氏の数寄屋建築の話は工務店にとって興味深い話だったようです。パネルディスカッションのテーマは「何を、どうしたらいい家になるか?」というもので、遠藤楽氏はフランク・ロイド・ライトの例を引きながら話をされました。小玉祐一郎氏からは「パッシブソーラーの話」がなされ、この時を機に、後のPLEA国際会議(1989奈良・1997釧路)で行動を共にさせていただくなど、小玉氏とは長いお付き合いをさせていただくことになりました。また、併催された「建物見学会」では、奥村昭雄・丸谷博男の「大泉学園の家」、永田昌民の「中野の家」、石田信男の「小田原の菓子店」を見学しました。箱根から中野までバスによる長距離移動だったにも関わらず、会員工務店からの評判は良いものでした。

OMゼミナールは箱根の後、熱海、長良川、八幡平、京都、釧路にて開催され、釧路ではPLEA1997釧路国際会議と併設して開催するなど、数百名規模の一大イベントとして発展して行きました。OMゼミナールはOM研究所との共同活動として取り組まれ、関連する建築家、技術者等の横のネットワークから、多彩な人的ネットワークが構築され、OM設計スクール(設計塾、設計道場など)の開催やOM地域建築賞の制定、技術者会議の開催など、活発に、多彩に展開されて行きました。地域工務店と建築家、技術者、研究者が、こういう形で行動を共にすることはそれまでなかったことで、『住宅建築』編集人だった平良敬一氏は後に「OMソーラーは建築運動史上、稀に見る取り組みである。生産者である工務店が芯となり、住まい手と建築家が実に上手く組み合わされていて、しかもそれを繋ぎ、結びつけているものが“設計”であり、“技術”であるところに、この取り組みの尋常ならざるユニークさがある」と評価されています。また、建築家の林昭男氏は、「これまで様々な建築運動が生まれては消えていったが、それらの中に建主、設計者、施工者を結びつけて進められた運動があっただろうか。OMの家づくりは、そうした面での新しさを持っていると思う」と述べられています。

1992年に岩手県・八幡平で開催された第4回OMゼミナールの分科会の様子。

1992年に岩手県・八幡平で開催された第4回OMゼミナールの分科会の様子。

16.失敗と吉報

初めてのOMゼミナールを無事終えることができ、ホッと胸をなでおろしているときに待ち構えていたのが「津山の家」の大失敗でした。 OMソーラーが誕生した年の秋から、会員工務店が手掛けるOMソーラーの家の建築が本格的に始まりました。津山の家を施工した工務店は熱心な工務店の一社で、天竜川のモデルハウスを見て、その空間の広がりと大きな開口部に魅力を感じるやいなや、すぐに津山で再現しようと考えたのです。しかし、このときシミュレーションに用いられた気象データは「広島」のものだったのです。当時は現在のようなアメダスデータがなく、気象データは空気調整衛生工学会によって整備された「標準気象データ」で、データそのものは大変優れたデータだったものの、観測地点が限られており、全国で23地点しかありませんでした。岡山県津山市は、岡山県といっても内陸部の日本海側気候の影響を強く受ける地域でした。気象データの選択ミスは失敗の大きな原因となりましたが、原因はそれだけではありませんでした。当時はまだ断熱・気密の考え方が希薄で、津山の家は断熱・気密が甘く、尚且つ開口部は天竜川モデルハウスを真似て大きく、しかもシングルガラスでした。暖かくならず、不満を募らせた工務店は怒り出し、「もうやめた」と退会されたのです。この工務店に対し、津山の家の問題点をまとめ、レポートを提出したものの「後の祭り」でした。この失敗を奥村に話したところ、奥村は「そういうことも起きるよ」と驚きもしませんでした。浜松のメンバーは皆真っ青だというのに極めて平然としていたのです。
そうこうしているときに、今度は吉報が入りました。厳寒の地、釧路でOMソーラーの試運転をしたところ摂氏60℃を超える熱風が吹き出したというのです。失敗の直後だったこともあり、私たちは俄には信じられませんでした。この頃は、マニュアルやハードが出来たとはいえ、会員工務店にとって、いや私たちにとってもOMソーラーは「海のものとの山のものとも分からない」状態でした。そういう中にあって、釧路の工務店は常設モデルハウスとして果敢に取り組まれたのです。今思えば、この挑戦がなければOMの普及は数年遅れたものと考えられます。栃木県の深谷建設ではOMの建物の様子が芳しくありませんでしたが、釧路での成功を聞くや「釧路でやれるものが栃木でやれないはずがない」と社員が大挙して釧路へ行き、穴があくほど工事現場の隅々を見て回られました。
1988年の釧路での経営者懇談会では夜のモデルハウス体感ツアーが組まれました。埼玉・共生建設の村上社長、岡山・潮建設の水野社長など、OMの効果を確かめるべく夜遅くまで動かなかったことを覚えています。皆、自分が選んだ技術に太鼓判を押したい気持ちだったのです。半信半疑を覆す証拠を欲していたのです。釧路モデルハウスはその期待に見事に応えてくれたのです。この吉報を奥村に伝えたところ、やはり奥村は驚きもせず感激の声もなく、当然のことのように受け止めていました。

北海道・釧路モデルハウス。断熱・気密性能が高ければ、北海道のような厳寒の地でもOMソーラーが機能することが分かった。北海道での挑戦は、本州の工務店にとって大きな励みになった。釧路モデルハウスは第一回OM地域建築賞を受賞している。

北海道・釧路モデルハウス。断熱・気密性能が高ければ、北海道のような厳寒の地でもOMソーラーが機能することが分かった。北海道での挑戦は、本州の工務店にとって大きな励みになった。釧路モデルハウスは第一回OM地域建築賞を受賞している。

17.現場主義

津山での失敗は原因がハッキリしていることであり、奥村はこの結果に学んで「標準気象データ」をもとに、個々の地域性と敷地条件をサポートし、それをスムージングしてシミュレーションする方法を提案していました。OMソーラーの技術は建築場所の情報(気象情報、周辺環境等)を正確に把握することが肝要であって、奥村の冷静な行動は一喜一憂している愚かな私たちを戒めているかのようでした。

そういう私たちだから、今度は一転して釧路から悪い知らせが入ると周章狼狽してしまうのです。釧路から「晴れているのに集熱温度が上がらない日があり、原因が分からない」という連絡が入りました。慌てて奥村に相談したところ、奥村は「風の影響だと思うけど」と答えました。私たちは奥村と共に釧路に飛び、奥村は現場に着くやいなや小屋裏に穴を開け、風速を測定し始めました。その日は風が穏やかな日で、空気は小屋裏を均等に流れていました。しかし、風が強い日には軒先から入って暖まった空気が、強く吹く風に押されて、あるいは引っ張られて、軒先から流出してしまうのではないかと奥村は推量しました。そこで、逆流防止のための対策を施し、また、当時重力式だったダンパーを小型モーターを使ってピタッと開閉できるようにした試作品を作り、釧路に送付しました。その数日後、釧路から「成功です。寒くありません」という連絡が入りました。これ以降、重力式ダンパーは全てモーターダンパーに切り替わることになったのです。

OMソーラーの技術は、釧路での展開に見るように、現場主義に徹することで改善を重ね、進化発展を遂げていきました。また、パッシブな技術は設計者(建築家)が考えたことが現場でその通りにいくとは限りません。逆に、現場サイド(工務店)から産まれたアイデアが問題を解決することもあるのです。どちらかが一方的に教える立場ではなく、互いに教え合い、互いに学び合う関係がOMの技術を支えているのです。工業製品とは違い、一軒一軒が現場である家づくりは設計者のみならず、施工者の意識の高さが問われます。「まずやってみる」「失敗したらそこから学び、またやってみる」という「ソーラー研」の精神が工務店をも巻き込んで展開していったのがOMソーラーという技術なのです。

いずれにせよ、釧路での成功は北海道の住宅の断熱・気密性能の高さが支えていました。断熱・気密がしっかりしていれば、厳寒の地でもOMソーラーが使えるということが分かったのです。そして、奥村の提案に従い、地域の気象データを把握すべく、地域の測候所、農事試験場、たばこ試験場などに足を運び、地域の気象データ収集に一斉に動きました。おそらく日本の建築史上、工務店が揃って地域の気象データ収集に動いた例はなく、前代未聞のことだったに違いありません。

18.設計スクール・地域建築賞

1987年にOMソーラー協会・OM研究所が設立され、こうして最初の一年が過ぎました。埼玉・共生建設の村上社長は後に「あなた方の“生き残り”という言葉に賭けて、どぶにお金を捨てる覚悟で入会した」と言われました。地域工務店に「どぶに捨てる金」などない筈だから、村上社長をしてOMが「差別化戦略の武器」になると予感されたのは、そこに新しく動き出した何かがあったからだと思います。また、滋賀県長浜の豊住研の中川豊太良社長(当時)は「当時、入会金を振込に行く足が、何度が止まりそうになったことを思い出します」と機関紙の中で語っています。このような躊躇いは、中川社長一人だけが感じていたことではなかったかと思われます。作家は処女作の中に、その作家の資質と可能性がすべてあると言われますが、OMも誕生から一年の間に、その後を示す「独自の種(シーズ)」が確実に芽吹いていたように思います。 OMゼミナールから派生した「設計スクール(設計塾、設計道場含む)」はその代表的な活動といえます。OM研究所のメンバーを中心に講師が編成され、泊まり掛けで行うというのが一つのパターンでした。地域工務店の設計者にとって現役の建築家から直接設計の指導を受けることができるというのは大変貴重な機会であったに違いありません。鹿児島のある工務店の社長は、設計スクールの“常連”の一人でした。付随して開催された建物見学では必ずスケール(巻尺)を持参し、時間が許す限り寸法を取り続け、その時の講師の技を学び取っていました。設計塾で塾長を務めていた野沢正光は「OMニュース」の中で設計スクールについて次のように述べています。「大変まじめなOMソーラー協会の寄り合いに何度か出席していますので、こうなるとは知りながらということではあるのですが、一生懸命な人々のまじめなスクールで、大変充実した気分です。夜遅くまでの議論と、“宴会より検討会(エスキス)のほうがいい”という、驚くべき集まりがどうしてできたのでしょうか。大変疲れたような、終わってしまって残念なような…」設計スクールは、参加者だけでなく、講師にとっても感慨深い取り組みとなりました。
そして、「設計スクール」と対になる取り組みとして開催されたのが「OM地域建築賞」でした。地域建築賞とは当該期間に建てられた全てのOMソーラーの家を対象に優れた作品をノミネート、書類審査、現地審査を行い、表彰するものでした。審査員は、奥村、小玉氏などの常連に加え、建築家の清家清氏、イラストレーターの大橋歩氏など、その時々の多彩な顔ぶれで、審査を受ける工務店は緊張を強いられながらも著名人と直に触れ合える思い出深い機会となりました。設計スクールに参加した工務店の設計力は大きくレベルアップし、次第に地域建築賞の常連として名を連ねるようになりました。そして、ノミネートされた住宅はOMの広告やパンフレットだけでなく、一般の住宅雑誌、建築雑誌の掲載候補となり、OMソーラーの家のイメージアップに寄与しました。実際に、この頃入会を希望してくる工務店の多くは、目に見えないOMソーラーの効果よりも、「カッコいい家を建てたい」「デザインの良さに憧れて」というのが入会の動機となっていました。

第4回目の設計スクールとなった「石田信男設計塾」の様子(1991年)。

第4回目の設計スクールとなった「石田信男設計塾」の様子(1991年)。

19.技術者会議・夏の学校

OM草創期の取り組みは、この技術の生い立ちもあり建築家を中心としたデザイン面がリードしてきました。しかし、OMソーラーに取り組む工務店が増えていくに従い、OMソーラーは建築家のOMから、それぞれの地域工務店のOMへと進化・成熟していきました。OM技術者会議は各地域の工務店の実践報告を中心に行われ、OMソーラーの技術の広がりを共有する機会となりました。1998年5月に開催された第一回OM技術者会議の閉会の挨拶で奥村は次のように述べています。「OMの工務店さんは何とまじめな人たちばかりだろう。こんなグループは他にはないのではないか。床下空気流れの模型を使っての実験方法はきちんと空気流れの可視化がされていたし、北側の冷たい風を室内に取り込み昼間の居間の床を少しでも冷やそうという取り組みなど、OMが熟成したことを感じずにはいられなかった」技術者会議を成立させたのは、OMに取り組むそれぞれの工務店が主体的にパッシブデザインに取り組んできた結果だといえます。

また、OMソーラーにおける建築デザイン運動としての活動の中で、忘れてはならない取り組みとして「OM夏の学校」「OM秋の学校」があります。夏の学校は第6回OM地域建築賞と併せて1998年9月1~3日の3日間開催され、秋の学校は第2回OM技術者会議と併せて2000年11月7~10日の4日間に渡り開催されました。夏の学校では、“軽井沢ウォーク”と称する軽井沢の名建築を巡る建物見学会を開催しました。吉村順三設計の「軽井沢の山荘」「脇田邸」、アントニン・レーモンド設計の「軽井沢聖パウロカトリック教会」「軽井沢新スタジオ」「旧軽井沢山荘(ペイネ美術館)」、奥村昭雄設計の「星野山荘」など、OMの会員工務店のみならず、建築を志す人にとって憧れの名作ばかりでした。秋の学校でも、吉村順三設計の「八ヶ岳高原音楽堂」、内藤廣設計の「安曇野ちひろ美術館」を見学し、それぞれの建物の設計に携わった方、関係者から直接説明を受けるなど、もう二度とセッティングできないであろう大変贅沢な建物見学が実現したのです。

贅沢な分、運営や段取りは大変でした。特に夏の学校では、見学物件は何れも小さな建物ばかりでした。これらの建物に350名の参加者をストレス無く案内するのは至難の技だったのです。見学物件間を結ぶルートバスを運行し、見学者毎に見学時間を詳細に割り振り、混乱が起こらないよう用意周到に準備を行いました。参加者の協力、また、運営に協力してくださった皆さんなど、多くの方の協力により無事に運営することができ、内部的にも、スタッフのイベント運営スキルの向上や仕事に対するやり甲斐、誇り、自信に繋がりました。そして何より、参加した工務店、設計者の満足度、意識の向上は計り知れないものがありました。参加者からは感動や感謝の声が溢れ、「良い建物を見る」「本物に触れる」機会を作れたことはOMソーラーの財産となり、底力になっているに違いありません。

浜松で開催された第一回OM技術者会議の様子(1998年)。

浜松で開催された第一回OM技術者会議の様子(1998年)。

1998年に軽井沢で開催された「夏の学校」。写真は吉村順三設計の「軽井沢の山荘」の見学風景。このほか、レーモンドの「北澤山荘」、奥村昭雄の「星野山荘」などの名建築を見学。今でも夏の学校を懐かしむ工務店は多い。

1998年に軽井沢で開催された「夏の学校」。写真は吉村順三設計の「軽井沢の山荘」の見学風景。このほか、レーモンドの「北澤山荘」、奥村昭雄の「星野山荘」などの名建築を見学。今でも夏の学校を懐かしむ工務店は多い。

■発展

20.フォルクスA・近山運動

1994年の秋、OMソーラーからシステム住宅「フォルクスA」が誕生しました。「フォルクス」のネーミングはドイツ製の国民車「フォルクス・ワーゲン」に因んだもので、OMソーラーが標準装備されたフォルクスAは“リーズナブルで高性能”な「国民的エコハウス」を提案するものでした。フォルクスAは、主な躯体部材をOM部材と共にOMソーラー協会(当時)が供給するもので、設計の考え方も含め、専用躯体部材、構造ルールを持つシステム住宅として開発されたOMソーラーの家です。誕生の際、評価が真っ二つに分かれた住宅でしたが、「素っぴんの、木の家」「木造打ち放しの家」などの広告コピーと共に、虚飾を排し実質価値を重視した家づくりの提案は “これでいい”から“これがいい”というように「新しい価値」を生み、最盛期にはOMソーラーの家全体の3~4割を占めるほどになりました(プロダクトデザイナーが選ぶ『ニッポン・プロダクト』に住宅として唯一選ばれた)。また、フォルクスAはいわば“スケルトン&インフィル”のはしりであり、「ベース」と「ゲヤ」から考える合理的な設計方法は、フォルクスAに取り組む工務店の設計力向上にも貢献しました。

2001年の元旦、朝日新聞紙上で1000人以上の賛同者を得て掲載した意見広告「近くの山の木で家をつくる運動・千人宣言」は現在の国産材活用推進に繋がる、社会的に意義深い取り組みとなりました。この宣言の母体としてNPO法人緑の列島ネットワークが設立され、OMソーラー協会は運営面で中心的な役割を果たし、OM会員工務店は各地の実質的な活動において中心的な役割を果たしました。元々、OMの会員工務店は地域に密着した工務店が多く、近山運動以前から、近くの山の木で家づくりをしていた工務店が少なくありませんでした。近山運動は、地域のポテンシャルを活かすOMソーラーの考え方(パッシブデザイン)の延長線にあり、OM工務店はその受け皿として最有力候補だったのです。「OMソーラーの家=木の家」、そして、「=近山の家」というイメージはごく自然な流れから生まれたものです。近山運動の呼び掛け人には音楽家の坂本龍一氏、作家の故・立松和平氏、ジャーナリストの故・筑紫哲也氏など、著名な方々も名を連ねていました。

浜松のOM本社屋横に建てられた第一号のフォルクスA。フォルクスAの設計手法は工務店の設計力向上に大きく貢献した。

浜松のOM本社屋横に建てられた第一号のフォルクスA。フォルクスAの設計手法は工務店の設計力向上に大きく貢献した。

2001年元旦の朝日新聞に掲載された見開きの意見広告「近くの山の木で家をつくる運動/千人宣言」。広告には考え方に賛同した2300名の名前が掲載された。その中には故・筑紫哲也、故・立松和平、坂本龍一などの有名人の名前も含まれていた。

2001年元旦の朝日新聞に掲載された見開きの意見広告「近くの山の木で家をつくる運動/千人宣言」。広告には考え方に賛同した2300名の名前が掲載された。その中には故・筑紫哲也、故・立松和平、坂本龍一などの有名人の名前も含まれていた。

21.時代が追いついてきた

2004年、OMソーラー協会は社屋を浜名湖畔に移し、自らの拠点を「地球のたまご」と名付けました。この地から環境と共生する様々な技術が孵化していく、という意味が含まれています。「地球のたまご」は様々な建築に関する賞を受賞し、このことは、私たちが考える「建築と自然の本来の関係」を社会が一定に評価したことを示しています。そして、実際に地元の小学生から全国の社会人まで、毎年多くの見学者が訪れ、「心地よさ」を体感しています。2008年には、よりいっそう「OMソーラー」が社会化していくことを願い、社名からそれまで親しんできた「協会」という名称を取ることにしました。現在では、経営者会議やOMゼミナールから進化・発展した会議や勉強会が、誕生当時には想像もつかない多岐に渡る内容で開催しています。そして、OMソーラーを構成する部材も進化・発展を遂げており、パッシブな自然エネルギー分野をリードし続けています。

2009年、OMソーラーシステムが(財)ベターリビングの「優良住宅部品認定」を取得、国土交通省「住宅・建築物省CO2推進モデル事業」に採択、2010年には環境省「エコハウスモデル事業」にて全国で4棟のモデルハウスに導入、国土交通省「第1回長期優良住宅先導事業」に採択(OM総合保証として申請)、環境省「地球温暖化対策技術開発事業/ゼロエミッション住宅・オフィス普及実証研究分野」に採択、2011年には「一般家庭における太陽熱利用システム」における「国内クレジット(プログラム型排出削減事業)」の認証取得、「第1回住宅・建築物省CO2先導事業」において、OMソーラーが提案する「OM-LCCMコンセプト/エコアッププロジェクト」が採択されるなど、様々な公的な事業を通して、社会化への道を歩んできました。そして、奥村昭雄が「(建物内外の)遮断の度合いをどうするかという観点しかない」と評した「省エネ基準」も、今後は「日射取得」など「応答すること」も評価の対象となりつつあります。このことは、ようやく時代がOMに追いついてきたことを意味しているのかもしれません。奥村昭雄はOM研究所(当時)所長退任の挨拶でOMソーラーを「次の世代の主流の考えの中に実証していくことを、皆さんに頼みたい」と語りました。OMソーラーという技術の社会化と共に、今後は「考え方」の社会化が問われてくることでしょう。奥村昭雄が他界した今、あらためてOMソーラーの原点を思い出し、奥村昭雄の眼差しを受け継ぎたいと思うのです。

2004年に浜名湖畔に竣工したOMソーラーの本社屋「地球のたまご」。

2004年に浜名湖畔に竣工したOMソーラーの本社屋「地球のたまご」。

「地球のたまご」敷地内に建つOMソーラーのモデルハウス「フォルクスS-Pro」。このモデルハウスには進化したOMソーラーの技術が随所に活かされている。竣工したのは2012年。天竜川モデルハウスが完成してちょうど四半世紀後のことである。

「地球のたまご」敷地内に建つOMソーラーのモデルハウス「フォルクスS-Pro」。このモデルハウスには進化したOMソーラーの技術が随所に活かされている。竣工したのは2012年。天竜川モデルハウスが完成してちょうど四半世紀後のことである。

【参考文献】『奥村昭雄のディテール』(彰国社)、『OMソーラーの家』、『パッシブデザインとOMソーラー』、『建築設計資料/OMソーラーの建築』(以上、建築資料研究社)、『新建築/住宅特集1993.11』(新建築社)、『季刊・環境研究2010,No.156』(日立環境財団)、『チルチンびと別冊No.35』(風土社)、『SOLAR CAT,No.30』(OM研究所)